『許す…の意味』



去年の年末に
東洋鍼灸院で
キナタツに処方された本
東ちづる著「“私”はなぜカウンセリングを受けたのか―「いい人、やめた!」母と娘の挑戦」



昨日やっと読み終えた。

久しぶりに
ズシっと重い内容だっので
半分くらいで読むのをやめたくなった。読んでる途中でイライラしてる自分も居た。

でも今までの経験から、
こういう読み辛い本に出会ったり、
考えたくないことにぶつかったりする時って、
後から得るものも大きいことを知っている。

今回のキナタツからの処方のテーマは「許す」。

ある身近な人のことを
まだ「許し」てないから、
人から誉められたり
人から応援されたり
することを素直に受け入れることが出来なくなるらしい。

特に仕事やビジネスになると、
途端にそうなるらしい。

自分では気づいてなかったけど、
プライベートとビジネスの間に必要以上に線を引く癖がある。

キナタツの診察は
毎回意表を突いて来るのだけど、
その時も面白くて、
「笑いのツボ」というものを測ってもらった。
(あ、初めての方は東洋鍼灸院の話しは信じないで楽しんで読んで下さいね)

僕の「笑いのツボ」は2メートルあるらしい。

基準がよく分からないけど(笑)、他の人は、何ミリとか何センチとか言われていたので、まあ広い方なんだと思う。
ただし、プライベート限定で、
仕事やビジネスになると、途端に「笑いのツボ」は全く閉じてしまって、「ふつう」のつまらない男になってしまう。

キナタツにはこうも言われた。
「今のやっしーは、好きな人から応援されたり、いい意味で特別扱いされた時に、苦しくなって、何も受け取れないどころか、ただの依存関係を作ってしまうよー。」

そこで僕はこう答えた
「でもなんか特別扱いされると、期待に応えないといけないと思ってしまうんですよね。」

するとキナタツ
「はあ?何で、応えればいいさ。嫌いな人からあれこれ指図されて嫌な気持ちになるのは、まだ分かるけど、好きな人から応援されたら俺だったら予想上回るように頑張るやっさー」

なるほど!
僕の中で応援されたり、誉められたり、期待されることを
いつの間にか勝手に「無理やり指図されてる」って思い込んでしまう思考回路が出来上がってしまってるんだな。

キナタツはこうも付け加えた
「でよー、やっしー。
やっしーのことが好きな人に期待かけられるさ。
そしてやっしーなりに頑張るさ。
でも失敗したとするさ。
それでも絶対その人はやっしーのこと否定したり非難したりはしないよ。それ分かっとけよ。」

そういうキナタツは
今では絶対に、嫌いな人から
期待される(つまりあれこれ指図される)ことは無くて、
尊敬する好きな人からの頼まれごとに、どうやって面白く応えようかと考えることが、いつも楽しくて仕様がないそうだ。

それは、キナタツは普段から
「俺はこう思う」
を発信してるから。
だということで…

その辺のこと
「私はこう思う」を発信すること、
自分や人を「許す」ことが、
さっきの本のなかで、東ちづるさんの実話を元に綴られていて、分かりやすかった。

そして、この「自分の思いを発信したり、許したり」することは、特に一年前の今頃、僕たち夫婦でも盛んにやってたことを思い出した。
夫婦で本音で向き合うと、かなり険悪な感じになったこともあった
今では笑い話しだけど、本気で離婚というキーワードが飛び交うこともあった。

あの感覚、なんとも言えず人間関係の原点を二人で築けた喜び。
あれを自分の手がけるビジネスでも再現出来たらいいな。
でも怖いな、夫婦以外に自分のことさらけ出すこと本当にできるのかなー。
でも幸いなことに、東洋鍼灸院の仲間でそういうことを、もうすでに実践していて、結果も出している仲間が沢山いるから心強い。

〜キナタツにも誉められたやっしーの強み。笑いのツボ。について

確かに昔から
落語とかお笑いが好きだった。

そこで
笑いのツボが広いことが
「許す」ことにどう役立つのか?
って考えた時に思ったのが、

「笑うこと」が好きな人と
「笑い」が好きな人。
両者の違いビミョーだけど、
全然違うんだよねー。
ってこと。

「笑うこと」が好きな人は、
おかしい現象に反応して笑いたい人。どちらかというと受け身。
「ゲラゲラ笑う=面白い」
って思ってる人。

一方、「笑い」が好きな人は、
日常の何気ない事柄に
何か面白いことが隠れてないかを
探す癖のある人。
必ずしも、
「面白い=ゲラゲラ」
ではないと知ってる人。
だからしょっちゅうは笑わないけど、「おもろいセンサー」は敏感

どっちが良い悪いでは無いけど、
僕は完全に後者(今のところほぼプライベート限定だけど)。

だから、お笑いに関してはジャッジが緩い(らしい)。
お笑い番組とか見てても、周りの人は面白くないつまらない、とか言ってても、
僕はなんかひいき目で見て、
「いやいや頑張って考えてネタ作って練習してるのがわかるし」
ってその人たちが影で頑張ってる情景を想像して、その過程や姿に「面白い」という評価を与えてあげたくなる。

それが「許す」とどう関係があるのか?

僕の場合だと、
笑いに関しては、人よりも考える癖がある方なので、その分野では想像力が働いて、笑いを生み出そうとしている人のことを理解しようと歩み寄る努力を、何の苦もなく出来てしまう。だから例えば、関西出身のKズマという親友がいるのだけども、彼はいつも「つまらない」ことばかり言って周りを困らせる。そんな彼を「許す」ことができる(これ好きってことね)。
でも例えばダンスとかには興味ないので、素人の下手な余興とか見せられると「意味が分からない」と、たまに思ってしまう(たまにね笑)。

さっきの本にも書かれていた事だけど、
人は実際に体験していなくても、
想像することは出来る。
そのことが、東ちづるさんと母親が「子育て」に関して食い違い、ぶつかり合っている場面に象徴的に現れている気がした。

母親は、子育ての経験の無い娘に対して「実際に子を産んで育ててみないと子育てのことは分からない」
と言い。

娘は「実際の子育てはしていなくても、別の形(東さんの場合だと、色んなボランティアで沢山の親子関係に立ち会い見聞きする機会がとても多い)で経験し想像することが出来る」と言う。

「許す」って言うのは、相手の立場になって…という表面的な考え方だけではなくて、
良くも悪くも「自分もそうなり得る」可能性があることを認めることなのかなー。おぼろげながらそう思い始めたきた…

子育ての関係で言うと、
例えば子供に劣等感を与える育て方をする親になってしまう可能性もあるし、
逆に親にちゃんと反抗出来ずに、勝手に劣等感を植え付けられたと思い込んで、社会に不満を持つ子に育ってしまう可能性もある。

実はそれぞれの立場で、気づくチャンスは沢山あって、それと向き合う人生を選択するかどうかだけなんだと…

勇気とか努力はあまり関係なくて、
自分の人生で
本音を自由に出し切る必要がある、と思うかどうか?
どんな生き方に「面白さ」を感じるのか?
そういうことなのかなー。

まだ答えは分からんけど。

最後まで読んで頂いた方
ありがとうございます(^з^)-☆

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