なのです。
でもこの「特別」の意味を取り違えている。
(ことが多い。僕もよく取り違える。)
「特別」っていうのは
「あなたはそのままでスゴイ!」ってこと。
何かをちゃんと出来たから特別なのではない。
例えば、イチローが特別なのは、彼がただ、イチローらしく振る舞うことを努力しているから。
イチローみたいになる事が特別なのではない。
ただ自分らしく「ある」ために努力することが特別なのだ。
ところがね、この、そのまんま自分らしく「ある」ことって、ずいぶん難しく感じてしまうのね。
僕たちは、人生の余りにも早い時期から「こうあるべき」という常識に縛られてきた。
事あるごとに、全ての行動を「常識」への方へと軌道修正させられてきた。
いまでも、職場で学校で家庭で、「会議」や「話し合い」の名を借りて「常識」裁判が繰り広げられている。
「あなたの考え、思っている事を聞きたいのです」
と言いながら、それはいつの間にか
「あなたがどれだけ常識的に行動できるか見せなさい」
にすり替わっている。
良かれと思って会議や話し合いを重ねれば重ねるほど、
疲れ果てて、新しいモノは何も生み出さず、前に進めなくなるのは、
個人の思いよりも、全体の重い空気が勝っているから。(だよ、たぶん。)
じゃあどうすればいいの。
「会議」や「話し合い」をやめて、
個人個人が想いのままに動いたらいいのだ。
え!?それじゃ大変なことになってしまう。
みんなが「わがまま」に動いたらコントロール出来なくなってしまう。
同時に、ちゃんと自分の背負う責任も自覚しているから、 誰かがコントロールする必要はない。(はずだと思う。)
あえて相手や自分が感じている(感じてそうな)タブーに触れてみる。
なるべく爽やかに(笑)
例えば、
そうすると表面上の言葉の行間にある
その人の根っこの「気持ち」に触れられる(気がする)。
表面上の言葉じゃなくて、「人の気持ちを感じる」訓練を積むこと。
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